YK-akadoの『不』日記

元劇団女優・まだ細々俳優鬱治療中の旦那の両親と同居で頑張る2児の母・剣道に息子と通う有段者で役員、その息子は不登校児に・長年勤務の パート主婦 、色んな立場で感じた事やぼやきを書き綴り、最愛の子ども達に何か残ればいいな。

母の記録

特別お題「わたしがブログを書く理由

私の母は、私が結婚する前、今から約26年前に病死している。
一人暮らしとなった父もその9年後に肺炎で急死した。第1子の長女が一歳の頃だ。

だから、私の子供達2人にとって、お婆ちゃんお爺ちゃんは、現在は同居している旦那の両親の二人だけ。

私の思い出話に出てくる『じいじ』と『ばあば』は写真の人。


晩婚で、子供が欲しがったが、稽留流産を繰り返し、不育症で大学病院にも通った私。
4度目の妊娠が何事もなく順調に安定期を過ぎお腹の中で元気に大きく育った長女。
陣痛が始まり、一旦病院に行ったものの、なかなか出てこなくて家に戻り、しばらくして再度入院、結局出産まで48時間かかった!
3000グラム超えのミニチュアお父さんな女の子だった。これ言うと激怒だな、長女。

稽留流産も不育症も、妊娠も出産も、高齢出産の子育ても、母が生きていたらなぁ~と何度思ったことか。里帰り出産なんて出来なかったとしても、産後しばらくのお手伝いをしてもらわなくても、せめて、疑問に思ったことや相談にのってくれるってだけでも、どんなに助かったかなぁ~、と。

第二子の長男は、7度目の妊娠で育ち、小さく生まれ、男の子だから、よく病気もした。

長男の産後、退院してから一週間は、旦那の母親、今は同居している姑が私達のアパートに寝泊まりして仕事に通ってくれる予定だった。
でも、長男の出産から入院中に長女の保育園の送り迎えや家事の手伝いのためにアパートに来てくれていたため、私達が退院して来た時には、姑は一週間ほどすでにこちらから仕事に通う生活をしていた。
だからもう嫌になっていたみたいで、旦那が夕食不要な時、ウインナー炒めただけ、野菜切っただけ、みたいな散々たる物がチョロっとテーブルに並ぶだけで、ちょっとびっくりした。
とりあえずは4歳の長女がお腹いっぱいになればいいかと、私はほとんど食べれなかった。

私の入院中、「これからまた○○に食べに行く」とか、けっこうな外食ペースだったからそんなに料理を作る機会が毎日ではなかったはずだった。
そして、退院から2日ぐらいの日、姑が「仕事に遅れて行ったり早退したりしてるから意地悪を言われる、だからもう帰るわ」


帰ってしまった。絶句した。
内孫ってこんなもんなんかなぁ。

私が姑の立場なら、仕事仲間や上司に嫌味を言われようが苛められようが、大事な家族、とりわけ孫の世話ならまず第一で、何だかんだ言うなら辞めてやる!って仕事も辞めちゃうぐらいのスタンスだ。私の母が生きていたら、多分倒れそうなぐらい身体が辛くても何をおいても手伝いに来てただろうなぁ~と思う。

生後、二週間もたたない長男を外に連れ出すのが不安で、かといって家に一人で置いておくのもかなり不安で、長女の保育園の送り迎えは、仕事の都合で旦那ができないことも多く、近所に住む友達に「見てるだけでいい、泣いても見てるだけでいいから」とお願いしたりして、やりくりしていた。

近所のママ友が姑の手伝いがなくなってしまったことを知って、よければ一緒に何か買い物するよと連絡してくれたり、時には赤ちゃん代わりに見てるから買い物してくる?と言ってくれて、感謝で泣きそうだった。
すぐ近所の長女と同い年の男の子のママ友は義母義父と同居でもあったけど、ご自身のお母さんもまだ若くてよく手伝いにも来てくれるらしく、ほんとに助かった。

退院後、3日目には通常の家事をこなしながらの幼児と乳児の世話。何たって高齢出産ですから、キツかった~。

そのうち、見ててくれる友達のやりくりも難しくなったり、いつまでも甘えているのもなぁと思い、長男は生後三週間ほどで外に出ることになった。横抱き抱っこ紐にのせて、長女の保育園の送り迎えや買い物。腕の中の長男にいつも「ごめんね、病気にならないでよ」と心の中でいつも謝っていた。

赤ちゃんだからと下の子を優先してしまうと、上の子がいじめるようになるかもしれないと聞いていたから、長男がグズって大泣きしてても、長女のことを優先していたら、長女の方から「Kが泣いてるよ、私は大丈夫だから、Kのところ行ってあげて」と言うようになり、お風呂も湯船に一緒に入るようになってからは長女が先に出てパジャマを着たら声かけしてくれる。
「出ていいよ~」

バスタオルの上に長男を置くと、長女が拭いてくれ、その間に私は急いで自分の身体を拭きパジャマを着る。
寒い冬は本当に助かった。
長男の離乳食を食べさせてもくれたし、よく面倒を見てくれた。
長男がグズってどうしようもなく泣き止まず、夕飯の準備が出来ずにいた私に「私が作ってみる~」と台所に立った娘。ウインナー炒めと豆腐に納豆をかけただけの納豆豆腐、きゅうりを切って穴につめた竹輪、4歳のお姉ちゃんは頼もしかった。

私自身も長女で下は8歳離れた双子の妹弟、私も離乳食食べさせたりミルク作って飲ませたり、オムツ換えたり、あやしたり、おんぶに抱っこ、8歳だから色々できた。
でも、うちの娘はその半分の歳で色々頑張った。

お姫様な格好が大好きな子だった。

そんなお姉ちゃんを中3になった長男は今も大好きで頼りにしている。



先日は大学の研修で台湾へ、初海外、初飛行機体験へ。

早朝、最寄りの駅まで送ってやった母に、あの頃と同じ笑顔で手を振る娘はこんなに大きくなった。


私の母は、家計簿も続かなかったし、何かあると書き留めていたけど、それも数ページで終わって続かなかった。日記も買って書こうとしていたけど1冊書いたことはない、遺品整理の時もそんな中途半端なものがよく見つかった。
子育ての参考にはならず、自身の子供の頃、妹、弟の育児の記憶が頼り。あの頃とは、全く色々違い過ぎます。
やっぱり困った時には『なんで、さっさと死んでしまったんだ!』と涙して、生きていてくれたらなぁと、何度思ったことか。

だから、長男を長女のサポートで子育てしていた頃に、思った。

娘が出産して子育てする頃までは、自分は頑張って元気に生きていようと。


でも、私は高齢出産だし、うちの家系は女が早死にだ。

生きていてあげられないかも、手伝ってやれないかも……それじゃあ、せめて記録しておこう。

何を考えて、何に困って、何に喜んで、どう対処してきたか。

お母さんは、あなた達が生まれてきてくれたお陰でここまで生きて来れました。
もちろんこれからも一緒に生きていくつもりではありますが、
一旦、ありがとう。