YK-akadoの『不』日記

元劇団女優・まだ細々俳優鬱治療中の旦那の両親と同居で頑張る2児の母・剣道に息子と通う有段者で役員、その息子は不登校児に・長年勤務の パート主婦 、色んな立場で感じた事やぼやきを書き綴り、最愛の子ども達に何か残ればいいな。

終戦記念日にあふれる記事やニュースを目にし亡き祖父に懺悔したくなった

戦後80年…戦争体験を語る方がどんどんいなくなる中、還暦を迎え自分も十分お年寄りの仲間になった私には後悔がある。

それは、祖父の戦争体験が書かれた数枚の原稿用紙を大事にとっておかなかったこと。

おじいちゃん、ほんとにごめんなさい。

それをもらった頃の私はほんとに子供だった。

うろ覚えなところが多々あるが、確か小学校高学年の頃のことだったと思われる。いや、中学生になってたのかなぁ〜、思い出せないが、夏休みの宿題の一つだったはず。
誰でもいいから戦争体験の話を聞いて感想文を書く、そんな内容だったと思う。


原稿用紙に書いてくれたのは、夏は梨の収穫と出荷だし(私も手伝いで忙しかった)、ぶどうや他の作物、田んぼもあった、農作業で忙しかったからなのか、祖父自身がうまく話ができそうにないから書いて渡すってことになったのか、覚えていない。
原稿用紙に達筆の青い字で書いてあったのを覚えているので、きっと万年筆できちんと書いてくれたのだろう。

でも、その頃の私といったら本は読まない、文章を書くなんて大の苦手で大嫌い。運動がすべて、どんなスポーツも上手くなるのが楽しみの一つで、対外的にもできないスポーツがあるのは『私』ではなかった。だから、勉強や成績、宿題はどうでもよかった。
祖父の達筆な字を解読しながら読み進めるのはかなりの苦痛で、ましてそれを感想文にするなんて。そして、戦争?お爺ちゃんは大変だったの?偉かったの?これまでも、時々お爺ちゃんは戦争の事を少しは口にしていたけど、大変だったとは言ってなかったし、優しくて穏やかで、働き者、普段の様子からも戦争の悲惨さや苦痛など全く感じられなかったため、私の戦争に対する意識が薄かった。人ごとだった。遠い昔昔の自分とは無関係なこと。めんどくさい夏休みの宿題をやっつけ仕事のようにこなしただけの私だった。

母親にちゃんとできたのか、確認された気がするが、文章書くの苦手だから無理だよ、みたいな事言ったと思う。それを母親はそのままお爺ちゃんに「文章書くの苦手だからごめんなさいね、せっかくきちんと書いてくれたのに」って謝ってた。確か。

その原稿用紙は私の勉強机の引き出しにずっと入ってたと思う、何年も。だけど、大人になって勉強机が不要になり片付けする頃には入って無かった気がする、捨てたのか?捨てたのかもしれない。それとも何処か違う場所に保管したのか記憶にない。もう私の実家は他人の手に渡り、その前からも弟が様々処分していたから残ってないだろう。


その内容で覚えていること。
祖父は通信兵だった。
伍長だった。
南方へ行った。沢山の仲間が戦死したが自分は帰って来れた。
通信兵は他の隊と連絡が取れなくなると大変だから、他の人に守られることが多かった。だから無事だったのかもしれない。
深いジャングルを小隊で行軍中、開けた所に出た途端、正面にもちょうどアメリカの隊、鉢合わせ!
お互い凍りつく。

そして、お互い目を合わせながら何事もなかったように全員でゆっくりと後退りしてジャングルの中に消えた。

アメリカ兵達も面と向かって、銃を向けて撃ち合う殺し合うなんて事できない、同じ人間なんだと思ったと。



私もこの話の部分は、とても印象深く、記憶に残っている。


覚えているのはこれぐらいだ。


祖父はど田舎のお百姓さんだが、周りがやっていない梨やブドウ栽培に着手してみたり、勉強熱心な人だったのかも。しっかり食べ待てるのかなと心配になるほど細かった。でも力持ち。細マッチョだったんだなきっと。戦場で通信機をいつも背負ってたからかな。
調べた所によると通信兵は暗号やモールス信号等覚えなくてはならない事が多く、機械にも明るくないとなれないらしい。頭が良かったのかもしれないな。

私にとっての祖父は、唯一私を下の名前で呼ぶ人。他の家族や親族は「お姉ちゃん」と呼ぶ。
私は父方の祖父にとって初孫。かなり可愛がられた。
勉強はできないがスポーツ得意で、目立つ存在が自慢のようだった。班長から高学年になってからは部落の分団長でもあった。と言っても我が部落は広いけど農家がほとんどで子供が少なかったし、同級生の男子がおらず大人しい女子ばかり、物怖じせず発言する私がなるのが必然的な状態だった。
祖父も祖父で、長く部落の総代さんを務めていた。
大運動会の字別リレー(町内別リレーがホントよね、でも田舎だから字、アザなんよ)のゴールで景品配ってくれるのは祖父、子供の少ない弱小部落なのでいつもエンピツだった。他の字はもっと色々入ってるもの配ってた。
祖父の趣味は写真と俳句、運動会で私の活躍を写真におさめたくライカのカメラをいつも首からぶら下げて良いポジションを探してウロウロしていた。



いつもカブに乗って、あちこち忙しそうだった。耕運機で国道も走り、よく隣にも乗せてもらった。
私の舞台も観にきてくれた事がある。舞台の記事など、新聞にも何度か載っていたので気にしていてくれていたと思う。電車で片道2時間半、いや3時間かかるかな、母に連れられて、元気なうちに一度は観たいと。
いや…結局、おじいちゃんが一番元気だったよね。
私の母、長男の嫁を見送り、自分の嫁も見送り、そして父、長男も見送り、叔父、次男も見送り、自身は亡くなる前日にも弟家族に動けなくなって迷惑かけたらいかんからと杖をついて散歩していたそうだ。静かに95歳で亡くなった。

趣味だった俳句

私を詠んだ句は短冊に墨で書いてくれたのが、実家の玄関に長く飾ってあったな。それももうないか。
確かこんなだった。

『赤胴の 剣士と見えぬ 艶姿

ありがとう。ごめんね、おじいちゃん。
私もこの歳でようやくみえてきた。
地域にも家族にも貢献し、しっかり生きぬいた祖父を尊敬しています。