YK-akadoの『不』日記

元劇団女優・まだ細々俳優鬱治療中の旦那の両親と同居で頑張る2児の母・剣道に息子と通う有段者で役員、その息子は不登校児に・長年勤務の パート主婦 、色んな立場で感じた事やぼやきを書き綴り、最愛の子ども達に何か残ればいいな。

いっぱい泣いた2日間

伯母の通夜式、葬儀に参列しました。

先週、月曜日朝、私の母の姉が亡くなりました。

先月末に従兄弟から電話をもらっていて、伯母が亡くなるのは分かっていましたが、連休も乗り越え、母の日も越え、そして月曜日朝に亡くなったとの従兄弟からのLINE。

詳細が決まればLINEするね、と、兄ちゃんと呼んでる伯母の次男からの連絡。

伯母は享年85歳



私が物心着いた頃には、伯母はシングルマザーだった。4つ5つ歳上の従兄弟2人の母。
確か、うちの母親が話していた記憶では、従兄弟2人の父親は賭け事がひどく、幼子2人を抱えて離婚したらしい。
あの時代、昭和40年代のシングルマザーには今みたいな行政のサポートなんてなかっただろうに。

私の母や伯母の母親、すなわち私の母方のお婆ちゃんは若くして亡くなっている。
母が中学二年生の頃に亡くなり、その後の家事は母が担ったそうだ。
兄妹5人のうち三姉妹の真ん中が母、子育てのサポートは姉妹で助け合って、町内こそ違うが、近所に住んでいた。
だから私が幼い頃は二人の兄がいた。

伯母の長男は小さな頃から背が高く温厚でしっかり者の優しいお兄ちゃん、次男は顔にも傷がいくつかあってやんちゃだけど面倒見の良い優しいお兄ちゃん。
大人になってからいつも突然現れ、結婚のお祝いだとか出産祝いだとか律儀に渡しに来てサッと帰って行く、先月末の家電への突然の連絡もLINEを繋げて、連絡役となってくれたのも次男兄ちゃんだ。

小さな頃から、2人の兄ちゃんは、とても私を可愛がって、よく遊んでくれた。
チューしている、されている写真もいくつかある。www

私は全く記憶になかった話が聞けました。

3人でマカロン(昔あった茶色い丸いお菓子、今みたいなカラフルな可愛いやつじゃない)
をおやつで食べていたら、私が突然おかしくなったそう。
丸ごと喉に詰まらせたらしく、長男兄ちゃんがうちの母を大声で呼んだところ、兄ちゃん達の目の前で母が足首持って逆さずりの私、背中をバンバン叩いたら、ポンッてマカロンが口から飛んで出た。
「あれにはほんとにびっくりして今でも鮮明に覚えてる」と長男兄ちゃん。


おままごと遊びによく付き合ったと聞いたけど私は兄ちゃん達と兄ちゃん達の友達、男の子連中とわーわーワチャワチャあちこちで遊んでた記憶しかなく、兄ちゃん達とのおままごとは覚えてない。
それを言うと、「いつもそんなんばっかりじゃ申し訳ないなと思って、時々おままごともしようと」そんな子供の頃から気を使って頂いていたとは。
私:「私は、なんなら男の子だと思ってたし、男の子になりたかったし」
長男兄ちゃん:「それはすべてあいつ(次男兄ちゃん)のせいです!」笑笑

私のその頃の鮮明な記憶と言えば、次男兄ちゃんの背中。
次男兄ちゃんは三輪車で私を迎えに来て、三輪車の後ろステップに私を立たせ、肩につからせてキコキコこいでどこにでも。
遠くの公園や天神様の広場、だれかの家の庭などいろんな所に遊びに行った。その頃は多分長男兄ちゃんが先に幼稚園に入園してしまっていて、昼間は私と次男兄ちゃんだけだったからかと思う。次男兄ちゃんのお友達数人とよくあちこちで鬼ごっこやかくれんぼ、チャンバラゴッコなどした記憶。

当時の年齢を想像するに、三輪車で自分の家から私の家まで迎えに来るのもすごい距離だし、私を乗せて三輪車をこいで、線路を越え坂道を下り、上り、天神様の広場までって………どんな脚力と体力なん!


そんなやんちゃな息子達を伯母は小さな喫茶店を営むようになり、その収入で立派に二人を育てました。

うちの母親が入院などすれば、伯母と従兄弟兄ちゃんの家に預けられ一緒に小学校に登校したり、逆に伯母が忙しかったりすれば、うちに従兄弟兄ちゃん達が来たり、姉妹で支えあっていました。

茶店は商店街の1角にあり、駅にも割りと近く、そのうち会社の昼休みにサンドイッチやヤキソバなど食べに来るような固定客もつき、有名な神社が近いので、お参りに来る観光客などが電車の待ち時間に利用したりと順調だったかと思います。
年末年始は参拝客が多いので、私は中学生になると、お手伝いに行くようになりました。
小さな頃も母とお店によく行きましたが、おしぼりをくるくるしたり、洗い物をしたりとお手伝いもよくしていましたが、中学生からは本格的にウエイトレスとして忙しくお手伝いしていました。
小学校四年生の頃、隣の隣の市、父の実家の方、ど田舎の方に家が建ったので私達家族は引っ越してしまいましたが、中学生からの冬休みの喫茶店のお手伝いは、電車に乗って通ったり、時には母の運転で送ってもらっていたと思います。


思えば、伯母の喫茶店が私の働く原点だったのか。

そして、母の妹、一番下の伯母も年末年始に喫茶店のお手伝いは恒例行事でした。

年末年始、伯母二人と私の喫茶店で働く風景は何年も続き、やがて私が高校を卒業し遠い専門学校に通う頃まで続き、私のポジションは、母の妹伯母の長女へ、そしてまた次女へと受け継がれて行きました。


そして、従兄弟兄ちゃん達は二人とも優秀、長男兄ちゃんは秀才、次男兄ちゃんはスポーツ万能、私の剣道は、次男兄ちゃんが剣道を始めた影響です。
そして、優秀な長男兄ちゃんが入った県立高校に、私も入ることになりました。w
私は優秀だからその高校に入ったわけではなく、私の家から自転車で通える普通科の高校がそこしかなかったから行っただけ、私の学力では無理だと言われたとこでしたが、どうしても電車通学したくなかったから、そこに滑り込み入学しました。

次男兄ちゃんは工業高校に行きましたが剣道が強く、何度も優勝経験があると思います。

そんな頑張り屋で優しく優秀な二人の兄ちゃんは、警察官になりました。

安定した生活に、奥さんも子供もでき、隣の県ですが、JR電車で、私の住む都市、県警所在地には片道30分ほどで着く街に二人揃って持ち家を建て暮らしていました。
伯母はお得意さんが来てくれるからと一人で喫茶店を70歳過ぎまで経営し、その後、長男兄ちゃんの家で同居していました。
次男兄ちゃんの家もほんの数ブロック離れた所にあるようで、子供と孫に囲まれた生活に安心していました。


伯母の手紙には、ご飯は長男兄ちゃんの奥さんが作ってくれていて、伯母は孫たちを学校に送り出して留守を守り、庭の手入れが役目だと書いてきていました。趣味の編み物も相変わらずなようでした。


その立派になった息子達、すなわち従兄弟兄ちゃんは警察を定年退職、次男兄ちゃんはこの春、3月に定年退職を迎えたばかりです。
ホッとしたね、きっと。

頑張った!お母さん。そう、伯母は自分の子供が二人とも男の子だから、女の子の私を可愛がってくれ、子供の頃私は実の母親を『ママ』と呼んでいたため、伯母は私に『お母さん』と呼ばせていました。
だから、ずっと私は「お母さん」と呼んでいた。
思春期になって母をママと呼べなくなり、実の母親は『母上』からやがて『母ちゃん』呼びになりました。
だから、ずっと伯母は「お母さん」


私の母ちゃんの分までよく頑張って長生きしてくれました。
ありがとうお母さん。

お通夜も葬儀も火葬場でも、よく泣きましたよ私。
母ちゃんが55歳で亡くなった時は自宅葬儀で長女の私はバタバタで、気が付いたらお棺の蓋が閉まっていて出棺しているとこだった。
バタバタで泣いてる暇なんてなかったよ。


ほんとにほんとによく頑張りました。ゆっくりお別れ出来ました。ほんとにお疲れ様でした。
天国で、うちの母ちゃんに会えたかな?姉妹トークを楽しんでそうだね。

ゆっくり休んでください。おやすみ。