YK-akadoの『不』日記

元劇団女優・まだ細々俳優鬱治療中の旦那の両親と同居で頑張る2児の母・剣道に息子と通う有段者で役員、その息子は不登校児に・長年勤務の パート主婦 、色んな立場で感じた事やぼやきを書き綴り、最愛の子ども達に何か残ればいいな。

どんなバイトした?バイト歴多数あり、書き残してみる②

初めてのバイトは確か近所のケーキ店兼喫茶店
はっきり覚えていないが、まだ現役だったかと思う。校則厳しい県立高校だったが、確かご近所の知り合いの親戚?かな?近所に店を出して、オープンしてしばらくの、冬休みか春休みかの短期でお手伝い、学校には内緒、確か母からバイトはどうか?近所、徒歩3分、だからバレないだろうし、とおすすめされたような気がします。
母が知り合いにお願いされたのかもしれません。実は、喫茶店の経験があるから。

バイトじゃない、まぁ、お小遣い程度の御礼はもらってました。母の実の姉から。私からしたら叔母ですね。
母の姉はシングルマザーで息子二人を喫茶店をやって、生計を立て、育て上げました。私が物心ついた時はもう喫茶店のおばさんでした。子供の頃は近くに住んでいて、従兄弟二人によく遊んでもらったり面倒みてもらったり、剣道をやりたいと思ったのも、下の従兄弟の兄ちゃんの影響です。
母の母親は、母が中学生の時に亡くなっているので、姉と妹、母の三人姉妹はお互いに助け合いながらの子育てでした。小さな喫茶店ですが、場所が、けっこう由縁有名な参道と最寄り駅の近く、お正月は参拝客で混雑するため、うちが父の田舎に家を建て引っ越してからも、一人電車に乗って片道20分、たまに母の運転で送り迎えもしてもらったり手伝いに行っていました。


今、ここまで書きながら、思い出しました。


私の『働くこと』の原点はここか❗️


子供の頃から、母と日常の買い物帰りに寄ってココアをご馳走になったり、時にはお昼にサンドイッチを食べて帰ったり、でもお客さん優先なので、席がいっぱいになると2階の住居に持って上がったり。
お手伝いもしました。常連のお客さんにおしぼりを出したり、お水を人数分コップに入れたり。さげものをしたり。小さな時から。
おしぼりは洗濯したのを濡らして手巻きし、ウォーマーに入れていたので、予備のおしぼりを巻いてあげておいたり、流しの洗い物をしたり。カウンター席からコーヒーの入れ方やサンドイッチの作り方をよく見ていました。
お正月、叔母さんの店で次の電車を待つ参拝客が多く、回転率が良く稼ぎ時。手伝いが当たり前のようになっていました。ウエイトレスだけじゃなく、パン屋さんサンドイッチ用のパン、焼そば用の麺をスーパーに買いに走ったり。
息子二人を立派に育て上げ二人共警察官になって各々家庭と子供を持ち、隣の県に戸建ても建てて暮らしていましたが、お馴染みさんが通って来るからと店を一人暮らしで続けて、五年ほど前にやっと引退。長男の家に同居になりました。庭の手入れと散歩の留守番オババだと叔母。私は子供の頃、母をママ、叔母をお母さん、と呼んでいました。



物心ついた時から喫茶店の仕事が当たり前のように目の前にあったので、高校生でのバイトも、さほど不安はなく、(ただ愛想笑い、面白くないのに笑えない、剣道と拳法する思春期のJKですから何となく想像してもらえれば😁)
国道沿いにあり駐車場も広いから盛況でご近所さんも時には来て「あれ?Yちゃん?Kさんとこの?」と気づかれ苦笑いでオーダー聞くことも。仕事はこなせても愛想のないウエイトレスだったと思います。すごい人見知りで他人に笑顔なんてほとんど見せない、スポーツしてる時以外は。そんな子でしたから。よく雇ってくれたと思いますが、オープン後の忙繁期の猫の手、だったかも。


その後は、高校卒業前に地元大手企業工場で同級生数人と短期集団バイト。
配属先はけっこうなバラバラ。
ほんとに工場内で作業の子、事務所で書類整理やひたすらパソコンに数字入力などの子、私は一人工場で出来上がった小さな部品の梱包作業。周りはオバチャン達ばかりで、責任者の課長はおじいさん。
ここは大きな社員食堂があり、お昼は確か支給。ネジではないけど工業用の長細い部品をダース単位でプラの皿に並べ箱を組んで包む、をひたすら黙々と作業。手は工業用油でベタベタで手荒れもしたが、オバチャン達の手元の作業をよく観察し、すぐにコツを掴んで、ひけをとらない作業スピードで働いたので、最後の日にご挨拶で課長の所に行くと「卒業したら、うちに来てくれないかなぁ、無理だよね~?いや~さすが剣道で段持ってる子はちがうなあ」
手元に私の履歴書を持っているようだった。同じ高校からの集団バイトだから履歴書で、「うちの部署はこの子」とか上席が選んだのかな?
連れをはじめ、わりと女子は事務所の方で仕事してたけど何故私一人だけ、この部署?と不思議に思っていた。この作業に剣道の段は関係ないと思うのだが、オバチャンばかりの中に入るには難しいだろうとメンタル強そうな私が選ばれたのか?今考えると青田刈り?のためのバイト要請?

高校卒業後は、観光業の専門学校に電車を乗り継ぎ片道2時間近い道のりを二年間通ったのでバイトどころではなかったが、長期休暇中は短期のバイトをしたと思う。ダイエーの洋服売場でバイトしたなぁ、確か。ひたすら棚の服を畳んで、値札付け替えなど。ずっと立ちっぱらし以外は、楽なバイトだった。
あと着物を着て、その洗える着物の宣伝用のチラシを駅前で配る、というバイトを友達の紹介で友達数人とやった。毎日、違う着物が着れて嬉しかったが、体力的にはけっこう大変な仕事。

もちろん正月は叔母の喫茶店を手伝った。

専門学校卒業後、劇団養成所に入るまで、ちょっと、ふらふらしていた。いや、連れのせいで芝居に足を突っ込むことになり、就職もせず、モヤモヤ。
古巣の小学校講堂での剣道教室で小学生達の稽古のお手伝い。そして、生徒二人、弟の同級生の家庭教師。
無事希望校に入ったのを聞いて、劇団養成所に入ることになったので、田舎から脱出、地方都市での一人暮らしが始まり、友達の紹介で近所にあったヨット屋さんで昼間はバイト、夜間養成所での勉強の生活が始まった。ヨットなんてさっぱり知らない世界だったが、主には店番。用品も分からないが、店主はお客さんに聞けばいいし、全部値札付けたからその通りに売って帳簿につけといてくれればよいと。店主と中間?は別の所に帆の製造会社があり、ヨットの大会などの用事もあるので店を空けることが多いから、店番が必要だった。暇で、時給も超安いが何とか生計と授業料は払えていたがカツカツだったような気がする。
生活がきつかったから、そこは一年居たかどうか記憶になく、その後、配膳人紹介所所属でホテルレストランのバイトへとつながる。


劇団員同士で結婚して、最初の妊娠が稽留流産になり、力仕事もあり体力勝負のバイトはよくないかと思い、主婦パートとしては事務職が良いかなと今のオペレーター業に至ります。


今の通販電話オペレーター、周りには妊娠も繰り返しの流産も内緒で四度目の妊娠が無事に安定期を迎え出産予定の1ヶ月前に、退職。劇団も引退。


三歳過ぎまで専業主婦で一緒に過ごしたいのを我満して、旦那から経済的に苦しいと泣きが入ったから長女を保育園に二歳で入れて、再度同じ会社に入り直しました。
長男は7度目の妊娠で授かりましたが、そこに至るまでの不育症外来への通院にかなりのお金もかかっていたので、産休育休でお願いして、保育園の一歳児クラスへ入れることになって復職し、現在まで。現在の2代目になってからは、本当に何度辞めようと思ったことか。仕事内容も、なかなか続かない、メンタル壊して病院通いになり辞めて行く子達を何人見送ったかしれない仕事なのに、経営側のストレスも更にある今の会社、派遣でホテル業をしていた頃の時給にはどうやっても何年勤めても届かないけど、子供達がいるから、子供の行事、用事を優先して働いているから、続けられるかも。
また、ホテル業の時みたいに、いつ「今日辞めます」ってやらないとも限りませんが。

同僚は良い人たちばかりなので頑張れるかな。

長女も初めてのバイトは、仕事内容より周りの人柄が、人間関係がうまくいくのが続く要素だと思います。ベーカリーもいいけど、喫茶店、今はカフェ☕️かな、カフェもいいんじゃないかな。

ふと、仕事の昼休憩中、あまり好きじゃないインスタントコーヒーをすすり、窓から空を見上げ思う。
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