YK-akadoの『不』日記

元劇団女優・まだ細々俳優鬱治療中の旦那の両親と同居で頑張る2児の母・剣道に息子と通う有段者で役員、その息子は不登校児に・長年勤務の パート主婦 、色んな立場で感じた事やぼやきを書き綴り、最愛の子ども達に何か残ればいいな。

似た者同士

今週のお題「おとうさん」って、今は、お父さんと言うと、旦那の事ですが、ここはやっぱり自分の父について書いておこうと思います。
ふと、思い出す事はあっても、じっくり想い起こす良い機会かと。
私の父は、長女が一歳の頃に急死したので亡くなってから14年ぐらい経っていることになりますね。あ、今年十五年祭の年かな?……うちの実家は神道で、葬儀も神式、五年、十年、十五年、と5を基本にいわゆる仏教でいう法事、神道では『祭事』を行います。
私の父は田舎の貧乏農家の長男、家や兄弟のために外に働きに出て、建設業のあっちの現場、こっちの現場と肉体労働を若い頃から。鉄筋業が農業より面白いからと農業を継ぐ事なく、というか、専業農家で食べていけないから、母と一緒になってから、自分で有限会社を立ち上げました。従業員も十数人の小さな会社の社長、大きな会社の下請けや、自分で仕事をとって来ないと従業員の給料も払えないから一生懸命だったんだと思います。仕事ばかりの父でしたが、仕事確保のための付き合いも兼ね、旅行や釣り、ゴルフ、キャンプ、そこに私も連れ行く事も。私が小さい頃は軌道に乗る前だったのか、小さな貸家や間借りの住まいを転々としてたような。よく母と喧嘩もして、茶碗が飛んだり、襖が破れたり、父も若かったから喧嘩のパワーも凄かったんじゃないかな。母も、自身の母親は中学生の時に亡くなってるので実家のヘルプもなく、子育てややりくりの逃場はなく、体も強い方ではなく、よく寝込んでもいて、就学前の歳でも私は自分で残りご飯を盛って、海苔を出して食べたり、五歳頃にはガスコンロで卵焼きも作れてました。
8年空いて私に双子の妹弟ができ、今のように行政側のヘルプがあるわけでもなく、育児は大変、私も一生懸命世話を手伝い、父は仕事ばかりでしたが、軌道にのったのか、自分の田舎に広い土地に新築二階建ての家、小学校三年生の時に引っ越し、広いキッチンに広い風呂、広いベランダ、広い庭、自分の 部屋も出来ました。今思うと、父は必死に頑張ったんだと思います。キレイで広い家はできましたが、父と母は喧嘩する元気もなくなったか、生活ペースも合わないので家庭内離婚のような状態でした。
男と女の二卵性双生児の妹は体が弱く、小児喘息、入退院を繰り返し、そのたび、私と弟で過ごす事も多かった。母もどんどん「お姉ちゃん頼り」私に頼る事が多くなりました。父も仕事の合間に面会に連れて行ってくれたりもしてましたが、私は母の父に対する様子や、ほとんど家にいない父に反発があって次第に口をきかなくなりました。正常な親子関係に戻れたのは母が入院したころからかもしれません。
父はよく、「お前が男ならなぁ」とよく私に言っていました。自分の会社を継いで欲しかったみたいです。実際、男の子のように育ち、男の子のような振る舞い、スカートなんて学校の制服しか持ってなかったです。多分、自分によく似た性格を感じていたんだと思います。愛情表現は不器用なほど苦手、でも熱意や愛情は深く、義理人情も厚く、言葉にするより態度で示す、一生懸命な背中をみせていればきっと子供だっていつか分かってくれる、語らずとも想いがあれば、そして、いつも忙しくしていて、ボケーとするのは苦手、休む時は休む!臨機応変、時には適当さも大切。私は父によく似ていると思います。
普通ならとっくに定年退職の歳でも父は仕事をしていましたが、現場ではなく、数件の親会社からの現場依頼の人手の割振りや、鉄筋加工の段取り、図面引きなど社長業は忙しく、なかなか引退出来なかった様子。早く引退して、あれもこれも、また自分の姓の由来やまつわる土地の訪問などやりたい事、行ってみたい所が色々あると、第二の人生についても語っていました。母を看取ってから十年、仕事やゴルフ、弟家族、内孫を遊びに連れて行ったり、家の中を整理したり、一人暮らしでしたが元気な「じいじ」は、自炊もしていました。長女が一歳のお盆休みには実家に帰って、普段自分では作らないだろうメニューの晩御飯を作ってあげて、晩酌、孫は皆可愛いけど娘の産んだ子供は格別だ、と長女を可愛がり、明日はちょっとゴルフの約束があるで、と出掛けたり、まだまだ元気いっぱいの父、そんなお盆のお休みから1ヶ月も経たない9月頭、夜、弟から電話、「おやじがヤバい、倒れた」私は「えっ?父ちゃん?じいちゃんじゃなくて?父ちゃん?」九十近い祖父がまだ健在だったので、じいちゃんかと思って何度も聞き返しました。ちょうどその日は長女が風邪でもない感じなのに、高熱を出していて夜間に駆けつけず、翌朝旦那の運転で高速を飛ばして病院へ。すでに意識なく病院のベッドで横たわる父、弟が「担ぎ込まれた時にはまだ意識あったんだけどな」と。こんな、マジで?ほんとに?父ちゃん!と心の中で。肺炎で、血圧の薬を飲んでいるから、薬が効かないとか、なすすべなく、もしもの時の延命処置をどうするか姉弟で話し合って下さいと。でももうその夜中危篤、アッと言う間に逝ってしまいました。自宅で行った通夜には、突然失なった社長に呆然とした様子の作業着姿の従業員や、数日前に一緒にゴルフしたばっかりだったのに、と信じられないと口にする仕事関係者、「おやっさん」と 皆に呼ばれていた父でした。若い頃から足が速く短距離選手で県大会までいったことが自慢、おかげで私も速く、いつもリレーの選手、あれもこれも、やってみたい質。高血圧で薬が必要事項事も受け継いでしまいました。
葬儀は会社関係もあるので地元の斎場でやりましたが、有線放送で流れたため、ものすごい人が来て下りました。まだ同居前の旦那の両親も来てくれましたが、旦那の父は、元気な父にあやかりたいと思ってたと、その数年後の私の祖父の葬儀でも、亡くなる前日まで周りに迷惑かけないように杖ついて散歩をしていた九十五歳の様子を聞いて「かくありたいあやかりたい」と周りに言っていました。ところが、同居した義理の父は散歩はしない、小さな孫を公園に連れて行く事もしない、1日中、寝っ転がってテレビを観るか座って新聞を見てるか、寝てるか、趣味もなく、趣味を探そう、生き甲斐を探そうともがく訳でもなく、動かないと動けなくなるよ、動かないのに、家で一番ご飯を食べる!忠告を聞かず、今は、歩くの精一杯、ものに掴まらないと立っていられない、まだ八十前でヨボヨボ、世間体をすごく気にするので恥ずかしいらしく、余計に外に出ない。毎日毎日、テレビをつけっぱなしで1日中家でゴロゴロの旦那の父親に、私の父を思ってすごく腹が立ちました。やりたい事いっぱいのまま、第二の人生を楽しみにしていた私の父は出来ずに死んで、あやかりたいと言っていたこの人は何もしない、ガンで思い半ばで亡くなった自分の親族の死にも何も学ばない、変えようとしない、ただ家でゴロゴロしている姿を孫に毎日見せていて何とも思わない。今となってはあきれ果て、最低限の言葉しか会話しません。
長男がよく釣りをやってみたいと言いましたが、うちの父が生きていたら❗️海でも川でも、釣りなんてホイホイ連れて行ってくれただろうな、まして長男は 娘が産んだ唯一の男の子、あっちへ連れて行き、こっちへ連れて行き、あれやこれや買ってやったり、毎週のように高速飛ばして週末どこかに連れ出していたかも。長男は「じいじ」を知りませんが話に聞く「じいじ」が生きててくれたらなぁ、と、ほんとに、生きててくれたら楽しい体験いっぱいしてて、今の不登校気味な長男はいないかもしれません。ほんとだよ❗️何であっさり突然いなくなった❗️父ちゃん❗️
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